会津藩〜エピソード第3章〜

会津藩は幼児教育に特長があった。
明治になってから東京帝国大学総長になった元白虎隊士の山川健次郎氏が回想している。
兄は山川大蔵で、若年寄会津戦争時は家老職であった。
妹に山川咲子がいる。
少し横道にそれるが、この山川咲子について簡単に述べたいと思う。

山川咲子

戊辰戦争での官軍の会津城攻めのときは、若松城に立てこもり、負傷兵の介護にあたった。
明治になってから国費留学生に応募し、選ばれ、岩倉使節団と共に渡米した。
数え12歳、最年少の津田梅子(後の津田塾大学創設)がわずか8歳だったと言う。
このとき、母親が「捨てて待つ」と言う意味で捨松と改名した。

帰国後は明治政府の重鎮、大山巌の後妻に入り、大山捨松となり日本赤十字社設立に尽力した。
これも会津戦争の折り、負傷兵の介護にあたったことがきっかけだったのだろう。
また、津田梅子の津田塾大学設立にも大山巌を通じて大いに尽力した。

写真でもわかるとおり、その恰幅の良さと美しさだけでなく、政府高官の夫人たちに語学と社交術を教え、明治政府の外交に一役買ったのである。
鹿鳴館の華」と呼ばれたのは、美しさだけではなくその聡明さと強さを讃えられたものである。

さて、話しを戻そう。
会津藩の幼児教育は、遊ぶ際にも長幼の序が保たれ、年少者は立ち振る舞いにおいて、決して年長者に先立つことはしなかった。
同一年齢か一歳違いは「呼び捨て仲間」でお互いの名前を呼び捨てにした。
しかし、二つ以上の差になると「〜〜様」といって敬語を使わなければならなかった。

十歳になると日新館に行くが、それまでは近所の寺子屋へ集まったという。
そこで、座長はまず生徒の前で毎朝、心得を述べた。

一、年長者の言うことを聴かなければなりませぬ。
一、年長者にお辞儀をしなければなりませぬ。
一、嘘言をいうてはなりませぬ。
一、卑怯な振る舞いをしてはなりませぬ。
一、弱い者をいじめてはなりませぬ。
一、戸外で物を食べてはなりませぬ。
一、戸外で婦人と言葉を交わしてはなりませぬ。

(最後の二つはどうかと思いますが、あとは今でも十分に通用する内容だと思います。)

これを毎日聞かされるので、言葉は自然と覚えるであろう。
このように幼少の頃から共同生活を行い、秩序ある訓練に励んだので、武士道の精神が自然と身に付き、会津士魂が形成されていったのである。