会津藩〜エピソード第4章〜

会津藩士の子供達は十歳になると、日新館へ入学となる。

日新館

長州藩明倫館仙台藩養賢堂米沢藩興譲館があり、幾多の人材を輩出したが、会津藩日新館も天下に響いていた。
この藩校の基礎は、藩祖保科正之によって創建された稽古堂に始まっている。

武術は必修であり、その他に弓術、馬術、槍術、刀術、砲術、柔術、水練などがあり、特に槍術は天下に響き、長州藩明倫館から指導を依頼されたそうである。
幕末にはこの長州藩と争うのであるから皮肉なものである。

しかし、数学を学ぶ者がおらず、算盤は営利のものとされ、武士は学ぶべきにあらずの風潮があったようだ。
その他、国史、地理、外国語、理科の教育もなかった。
この辺のいわゆる科学技術教育が遅れていたのも幕末に会津藩が敗れた原因かもしれない。
会津藩校日新館は、あくまでも会津藩体制の確立に情熱が注がれ、会津魂を学び、不屈の闘志を沸き立たせることにあったのだろう。

松平容保

その教育が行き渡り、幕末の頃、松平容保を藩主とするこの藩は実に質実剛健を範とした東北の雄藩であり、藩校日新館での基本的な教えは「ならぬものはならぬものです」という実にわかりやすい言葉であらわされている。

私事ですが、子供たちが小さい頃は、毎年の夏休みには必ず福島県に暮らす親戚宅にお世話になり、ゆっくりとした休日を楽しんでました。
会津と言っても、会津若松市から、さらに新潟方面へ車を走らせ、奥会津の入り口に当たる辺りに三島町と呼ばれる山深い場所が我が愚妻の生まれ故郷です。

最近は子供たちも成長し、社会人であり、簡単に夏休みを取れないこともあり、しばらくは行ってないですが、土地柄と言いますか、周りの空気と言いますか、感想は一言で言えば、時間がゆっくりと流れているという印象です。単にノンビリしているという意味ではなく、芯の一本通った器を持った地域であるといえます。

松平春嶽

一橋慶喜

この会津藩が幕末の動乱に巻き込まれ、国許が凶作続きで大変なときに「家訓」が故に松平春嶽一橋慶喜に騙されるようにして、戦場とも言える京都に守護職として駆り出され、幕府のため、朝廷のため、我が身を削ったにも関わらず、後に国賊だの朝敵だのと言われ、完膚無きまでに叩きつぶされたのは、まさに歴史のいたづらと言う言葉で済まされるものではない!!