会津藩〜エピソード第6章〜

会津藩京都守護職を考察するに当たって、新撰組の存在は切っても切れない関係にある。
少しだけ横道に入るが、新撰組について思うところを書いてみたい。

壬生に着いた二百人以上の浪士隊は、あまりにも荒えびすで、幕府も手を焼いた。
それで、横浜で起こった生麦事件を口実として、江戸へ呼び戻した。
その中で、あくまでも当初の予定通りに治安維持に当たると主張した近藤、土方、沖田ら十数名が京都に残った。
これが後の新撰組である。

左から近藤勇土方歳三沖田総司

新撰組京都守護職松平容保お預かりとして会津藩の傘下に入ったのである。
新撰組の初期の頃は芹沢鴨新見錦、そして近藤勇の三人が局長であった。
特に芹沢鴨が筆頭局長と言うことであった。

この芹沢鴨は水戸天狗党出身で非常に粗野な人物であったと言うことだ。そのせいか初期の新撰組は京都で実に乱暴な集団であったらしい。

しかし、近藤勇土方歳三が実権を握ってからは数多くのいわゆる勤王の志士を斬り、京都の町では人斬り集団として恐れられていたが、一般婦女子への乱暴騒ぎはあまり聞こえてこない。
おそらく会津藩からの指導の徹底と近藤・土方らが厳しく管理統制をしたからであろう。

現在ではこの新撰組は人斬り集団の敵役として伝えられている。
正義の味方が、薩摩、長州であり、坂本竜馬のような勤王の志士と呼ばれる人たちで、小説では鞍馬天狗だ。
しかし、よく考えてほしい。新撰組はいったいどういう位置付けだったか。

時の政権を担っていた徳川家の命令により、会津藩が遠い東北の片田舎から京都守護職として治安を守るため行動していた。その会津藩のお預かりとして不逞浪士たちを成敗していたのだ。
今で言えば国の命令でいわば警察の別働隊として動いていたのだ。

明治になってから政権交代が起こり、薩摩と長州の世の中になったから、薩長を攻撃していた組織を単に悪者にするのは歴史を正視してないといえるだろう。

確かに新撰組は人斬りの名人たちが多く存在した。近藤勇土方歳三沖田総司井上源三郎永倉新八、原田佐之助、藤堂平助斉藤一、山崎蒸、島田隗、・・・・・・などなど数え上げればきりがないくらいだ。
土方などは「刀の中子が血で腐る」と言うくらい斬りまくったらしい。

しかし、その時代はテロ的な行動を押さえるのは刀に頼るのが当然の時代なのだ。斬らなければ斬られるのだ。
したがって新撰組だけが人斬り集団とか言われるのはおかしいのである。

薩摩藩に多くいた示現流、勤王の志士に多かった北辰一刀流なども人斬りの流派である。
その当時は皆、人斬りの道具である刀を自慢したくらいだ。
近藤勇長曾根虎徹土方歳三和泉守兼定沖田総司菊一文字などが有名だ。

そんな時代であるので、人を数多く斬ったからと言って単に悪者にされてはたまらないと思う。
私は彼ら新撰組の人たちこそ忠孝の集団であると思っている。

新撰組の活躍については、まだ芹沢鴨が筆頭局長であった頃の七卿落ちがあった八月十八日の政変、翌年の近藤勇が局長になってからの初手柄とも言うべき池田屋事件など、京都の治安維持に大きく貢献した。

余談になるが、池田屋のあとに近藤勇が故郷に送った手紙に「我が愛刀の虎徹は刃こぼれ一つない」と書かれていたらしい。
刀の刃同士を斬り結べば、刃こぼれがないことなどあり得ない。
と言うことは、相手の刃を峰打ちではねのけ、返す刃で斬りつけたと言うことになる。

これをもって、知識人の中には近藤勇こそ、宮本武蔵塚原ト伝など数多いる剣客の中で侍史上最強の剣客であろう、と言う人もいる。
しかし、近藤の話半分の自慢話の可能性も否めない。
ま、歴史の中の一つの伝説として楽しめばいいだろう。(笑)