会津藩〜エピソード第11章〜

しかし、会津藩も実に割に合わない役割を任ぜられたものだ。
勤王の志士と自称する輩の大半はいい加減な者が多く、攘夷の御用金と称してのゆすりたかりの毎日であった。
新撰組を悪の権化とし目の敵にしたが、自分たちの方がもっとたちが悪い。

会津藩としてもそんな輩を取り締まっても、それほどの評価はされない。まさに報われない仕事である。
新撰組にも頼らざるを得ないが、あまりにも悪名が高まってしまい、京都では人斬り、鬼と蔑まれ、恐れられた。
松平容保にとっては頭の痛いことである。
こうなることは分かっていることなので、他の藩はどこも京都守護職になろうとはしなかったのだ。

その池田屋事件以降、京の町はますます荒れてきた。
長州藩では過激な意見の押さえ役であった桂小五郎もつらい立場であった。

桂小五郎

池田屋で多くの同士が殺されたにも関わらず、自分は逃れており、しかも藩邸に逃げ込もうとした同士を見殺しにした。
長州においても、まさに針のむしろであっただろう。
それだけに説得しようにも誰も耳を貸さないのは、しょうがないことだろう。

元治元年(1864)七月十八日夜、ついに戦争に突入した。世にいう蛤御門の変である。
会津藩は千五百の兵を出して戦闘態勢をとった。
幕府側は使者をだして、長州藩の説得に当たったが、福原越後真木和泉久坂玄瑞は一歩も引こうとはしなかった。

左より福原越後真木和泉久坂玄瑞

ついに火蓋が切られ、長州勢は御所に向け怒濤のごとく攻め入り、京の町は炎に包まれた。
最初は長州勢の勢いが勝ったが、やはり戦は怨念だけでは勝てない。
数に勝る幕府側が徐々に追い込み、長州勢は敗走を始めた。

この戦いで、久坂玄瑞入江九一松下村塾の四天王の二人が戦死した。
すでに先の池田屋吉田稔麿が戦死しており、高杉晋作は後に病死であるが、いずれも若くして亡くなっている。
吉田松陰の妹と結婚していた久坂玄瑞にとって、義兄でもあり師でもある松蔭の遺志を継がなくてはならないし、入江九一久坂玄瑞より肝っ玉が据わっていると師匠からほめられていた立場もあり、やむにやまれぬ出奔であったと思う。
ここにきて、また松蔭の犠牲になった人物といえるだろう。
死んでも悪影響を及ぼす松蔭は、とんでもない大罪人といえるだろう。(独断と偏見ですよ)

桂小五郎のように革命後の日本に自分は必要であるとし、絶対に自分は死ねない、と逃げの小五郎とまで言われながらも、後に明治政府の重鎮として生き延びた方がよかったのではないか?
高杉晋作は病死であるので、やむをえないとしても、残りの三人の優秀さを考えれば、吉田松陰の及ぼした悪影響は、日本発展の足をひっぱたと言えなくもない。

この後、山崎の天王山に立て籠もった真木和泉は覚悟の自刃で果てた。
そこに攻め入った新撰組近藤勇は、武士としてその立派な最後の姿に涙を流して讃えたという。
もし、敵の立場でなかったら、お互いを認めあう仲になったであろう。

蛤御門の変を描いた瓦版

この戦闘で京の町は二日二晩燃え続け、町の八割が消失した。
戦争で迷惑を被るのはいつも一般の民である。