会津藩〜エピソード第13章〜

世の流れは、明らかに変わってきていた。

一橋慶喜

徳川家茂が急逝し、一橋慶喜が十五代将軍になったが、後にはこのブタ将軍(豚肉が好きだったらしい)が、二心殿と呼ばれるくらい優柔不断で頼りない将軍であることが歴史に影響してしまったが、当初は賢候として名高く、会津藩としても歓迎することであった。

しかし、ここで歴史の流れが一変する。
まさに青天の霹靂、万事塞翁が馬、一寸先は闇である。孝明天皇が急逝した。
疱瘡にかかり、一時は快方に向かったのであるが、にわかに症状が悪化し、懸命の治療の甲斐もなく、崩御された。三十六歳であった。

岩倉具視

岩倉具視が、妹である堀河紀子を宮中に送り込み、手なずけた侍医に毒を盛らせた、とか中国地方を統轄していた尼子一族→大内氏→陶氏→毛利家に仕えた「はちや一族」の子孫である伊藤博文に殺害させたとか、諸説あるが、はっきりしない。
先の家茂の急逝もそうだが、この辺から幕末の闇の部分が多くみられる様になる。

理由はどうあれ、孝明天皇崩御されたことは、会津藩にとって大打撃であった。
もともと病気がちであった松平容保はますます気力を失い、京都守護職の辞任を申し出たが、慰留され、職にとどまざるを得なかった。

もう幕藩体制はガタガタである。
フランスと提携して再生を図るも、勝海舟西郷隆盛坂本龍馬と通じ、ことごとく邪魔をした。
どちらかというと幕府寄りであった土佐藩は、この状況を見かねて仲裁に入り、慶喜に将軍職を降り、合議制の政権を作る様に進言した。
これが、裏事情を知っての甘言なのか、本心なのかは今となっては分からない。

後藤象二郎

土佐の後藤象二郎は、新撰組の近藤とは親交があり、近藤も土佐藩士には手を出すな、と命令していた事を思うとあながち甘言とも言えない面もある。
ただ、龍馬は本気で合議制を考えていたようで、そのため、龍馬は疎ましく思われた薩摩藩に粛正されたとの話もでている。

龍馬暗殺について、下手人は様々な説がある。
今のところ、幕府旗本の次男三男で構成された「見廻り組」の今井信郎と言う説が有力である。

ともかく、慶喜は合議制政治の話に乗った。
自分がリーダーになれると思っていたのだろう。
大政奉還をし、朝廷に将軍職辞任を申し出て勅許され、王政復古の大号令となる。
1867年(慶応3年)12月9日のことである。

大政奉還の図

この時点で徳川家もただの一大名になった。
たちどころに御所の警備は薩摩藩兵に取って代わられ、会津藩は追い出された。
後に明治天皇を奪われ、幕府と会津藩は朝敵になってしまった。
これが政治のからくりであろう。世の流れに乗れなかった不器用な人々が歴史の犠牲になった。

大政奉還後、歴史の流れは一気にその足を速めた。
新撰組と同じく、伏見奉行所に詰めていた会津藩兵はあまりの理不尽さに激昂し、戦闘は避けられない状況となった。

御香宮神社

伏見奉行所の北、御香宮神社に陣取った薩摩軍とにらみ合いになった。
しばしのにらみ合いの末、御香宮神社より発せられた一発の砲声、一発の銃声が、遠く函館へと続く「戊辰戦争」の始まりの合図となった。
慶応四年(1868年)1月3日のことである。


世に言う鳥羽・伏見の戦いである。