会津藩〜エピソード第14章〜

「一騎となるとも引くべからず」
大阪城に陣取った慶喜は徹底抗戦を叫んだ。

鳥羽伏見の戦い図(突進する会津兵)

数で圧倒し、負けるはずのない戦いであったが、戦況は芳しくなかった。
会津藩兵が持つ銃にしても旧式であり、刀槍の戦いで敵を討てば、首をはねてその首を手柄として腰にぶら下げて戦った。これでは機敏な動きができず、勝てるはずもない。

確かに白兵戦では、一騎当千新撰組は大活躍だった。
しかし、時代はもう刀剣の戦いではない。そのことは戦っている本人達が感じ取っていただろう。
幕府・会津藩は押され気味であった。

そんな中、薩摩・長州側に突如として錦の御旗が立てられた。さらに、「幕府・会津は朝敵なので追討せよ」と密勅が下った。
むろん、錦の御旗も密勅も偽物ではあるが、この時点で薩摩・長州が官軍となった。

会津藩は幕府を支え、京都で十分な働きをし、さらに孝明天皇の信頼も厚かった。
そんな律儀な会津藩が朝敵であるはずがない。
人を陥れ、人を騙してでも権力の座に就きたかった強欲な薩摩・長州の策略である。
こういう政治は今も行われているが・・・・・・。

とはいえ、これが政治である。この錦の御旗をみて、様子を見ていた近畿諸藩は一気に官軍側についた。
これで勝負あり、である。

さらに、新撰組を含む会津藩側は敗走し、大阪で再奮起しようとしたが、その大阪には徳川慶喜松平容保の姿はなかった。すでに江戸に向かう船の中にあった。
前代未聞の大将の敵前逃亡である。

神保修理

慶喜は後年、このときのことを次のように語っている。
会津神保修理に逢い、速やかに江戸に戻り、前後の計を運べるべし、と言うことだった。」
まさに責任転嫁である。
忠義を尽くした会津藩の責任にしたのである。そのことで、後に神保修理は自害させられる。

会津藩兵の慚愧の思いは想像を絶するものがある。
何の関係もない、この私でさえ、はらわたが煮えくりかえる思いである。