会津藩〜エピソード第15章〜

神保修理は幅広い視野を持つ人物であった。
会津藩にはこういう人物をかばえる体質になかったようだ。その辺は実に残念です。

国許は保守的で形式主義で、世の中の流れの情報が入ってこなかった。
軍備も整わず、戦術戦略も時代遅れであった。
そんな中、先見の明をもった人物もいた。砲術師範の山本覚馬もその一人である。

山本覚馬

「いたづらに勤王、佐幕と対立してる場合ではない」、「日本人の内輪もめはいけない」と当時としては異色の発言を繰り返していた。
惜しいかな、目の病で藩内に影響を及ぼすことはできなかった。

鳥羽伏見の戦いが始まると戦争をやめさせるため、薩摩の陣営に向かい、そのまま囚われの身となった。
戊辰戦争の後もそのまま京都に残り、明治政府から学識を買われて京都府顧問に就任し、新島襄とともに同志社英学校を創立した。現在の同志社大学である。

新島襄

新島襄の奥さんは、山本覚馬の妹で山本八重(子)である。

山本八重(子)

2013年の今、NHKの大河ドラマで描かれている、その人である。
したがって、新島襄山本覚馬とは義理の兄弟になる。
ドラマではその山本八重を綾瀬はるかさんが演じている。

会津戦争の時は、男装までしてスペンサー銃を担いで戦闘に参加した。
幕末のジャンヌダルクと呼ばれている。
悪妻烈女ハンサムウーマンと言われ、明治の時代にあってエネルギッシュな女性であったようだ。

また、皇族以外で政府より叙勲を受けた初めての女性だった。
新島襄の死後も、この山本八重子は学生達にずいぶんと慕われたと同志社の歴史に深く刻まれている。
この八重さんについては、詳しくは各種のドラマ本が出版されているので、そちらを参考にされたい。

さて、話を戻そう。
大阪を退却した会津藩は失意のドン底で会津に戻った。
六年にわたる京都での生活は何だったのだろう?何を得たのだろう?

思えば、守護職に就任し、新撰組会津藩お預かりとし、八月十八日の政変で長州を退け、新撰組池田屋に踏み込んで、ともに長州の暴挙を未然に防ぎ、蛤御門の変で長州を駆逐した頃が栄光であった。
いまや、京都守護職を解任され、鳥羽伏見の戦いに敗れ、徳川宗家にも裏切られ、朝敵だの賊軍だのと言われての敗走である。

しかし、官軍である長州の追撃はまだ終わってなかった。