会津藩〜エピソード第16章〜

長州藩会津攻撃の準備を進めていた。
徳川慶喜勝海舟はみて見ぬ振りで、江戸に戻った新撰組勝海舟より「甲陽鎮撫隊」として、甲府城攻めを言われた。
大名にしてやるとの話であるが、体よく江戸から追っ払う考えであった。
まさに、トカゲのしっぽ切りである。

板垣退助

結果的に板垣退助率いる官軍が先に甲府城を乗っ取り、新撰組は退却せざるを得なかった。

江戸城無血開城

勝海舟慶喜の首を守るために奔走し、西郷の政治判断で慶喜を蟄居恭順させることで和解し、江戸城無血開城へと結びつけた。
その代償で、官軍としては松平容保の首をとらざるを得なかった。
会津藩はさんざん、滅私奉公したにも関わらず、最後はボロ切れのように捨てられてしまった。
「大樹、連樹を捨つ」、あっては成らないことである。

長州藩としては、「会津は許さぬ」と桂小五郎は言い切った。
まさに逆恨みである。自分たちのしたことを棚に上げての暴言である。
御所に銃を向けたのは誰なのか、手当たり次第に「天誅」と称してテロ行為を行ったのは誰なのか!
商家に押し入り、「御用金」と称して、金銭を巻き上げていたのは誰なのか!
盗人猛々しい!とはこのことである。

自分たちの無法な行為を歴史から消し去り、正当化するために会津藩を悪者にする必要があった。
長州は世界の歴史に残る大犯罪をやってのけた。

大村益次郎

江戸における争乱、上野の山に立て籠もった彰義隊大村益次郎(幕末最高の軍略家として知られるが、上記肖像画にあるように、坂本龍馬に火吹きだるまとあだ名を付けられたらしい)が、わずか三日で制圧し、いよいよ会津制圧に準備が整った。

この間、薩摩藩としては京都時代に会津藩と同盟を結んだ時期があったので、心苦しい面はあったが、もはや。時の流れに逆らうことはできず、長州藩の肩を持たざるを得なかった。

もう、会津藩の謝罪恭順は考えられなかった。
ことここに至れば、戦い抜いて城を枕に死ぬ。それしか道は残されていなかった。座して死を待つ訳にはいかない。
幕府の再興など考えてなかった。敵はただ一つ、長州藩である。
朝敵の汚名をきせられ、その理不尽な行為を敢然と受けて立ち、会津藩ここにあり!の意気を見せないと雄藩の名が泣く。
生きるか!、死ぬか!の覚悟がいる。

しかし、あまりの流れの速さに会津藩首脳陣はなす術を知らなかった。
狼狽えるばかりである。
そんな中、彗星のごとく現れたのが、若手筆頭家老の梶原平馬である。