会津藩〜エピソード第19章〜

会津藩への攻撃は白河口の軍兵で、会津仙台藩の支援を受けたにもかかわらず、戦闘に敗れ多くの犠牲をだし、二本松城が陥落し、国境の母成峠が破られ、・・・・・と次から次へと敗走した。

母成峠付近の地図

母成峠古戦場碑

会津戦争は母成峠付近での戦いが実に熾烈を極めた。今いくと実にのどかな高原地帯に快適なドライブコースとなっている。ほんの百数十年前に起こったことが信じられないくらいだ。

母成グリーンライン

このように会津藩の主力部隊は国境にでており、城下は老人、婦女子しかおらず、実に悲惨な戦いとなったが、先に述べた砲術方の山本八重(子)が男装して銃をぶっ放し、城内では山川咲子(後の大山捨松)が負傷兵の看護にあたるなど、まさに蜂の巣をつついたような騒ぎであった。

敵が城下に侵攻してからは、婦女子も含めて多くの犠牲を出した。
敵に捕らえられ、聞くに堪えない陵辱の限りを受けた婦女子が続出した。
この日に城を守っていたのは、先に述べたように老人、婦女子、そして白虎隊の少年たちで、いささか心許ない攻防である。

白虎隊自刃の図

この白虎隊についてはあまりにも有名である。会津の象徴である会津城が燃え落ちたと勘違いして飯盛山で自害した話だ。白虎隊士を弔う碑もこの飯盛山にある。
白虎隊の悲惨な最期は、唯一生き残った飯沼貞吉によって後世に詳しく伝えられた。
また、酒井峰治も白虎隊であったが、皆とはぐれ幸運にも生き残った。

飯沼貞吉

酒井峰治

この白虎隊の下にさらに年少隊と言うのがあり、今の中学生くらいの年齢の者たちであったらしい。この年少隊の話はそれほど後世に伝わってないが、同じくほぼ全滅しているので、白虎隊より悲惨で涙を禁じ得ない。
その他、年齢によって青龍隊朱雀隊、など多くあったが、あまり知られてないようだ。

薩摩藩がいわゆる官軍となり会津に侵攻してからの傍若無人ぶりは実に聞くに堪えない状況だ。
城下ではないが、会津坂下で婦女子隊の中野竹子が妹の優子による介錯で自害したのもこのときだ。
写真(肖像画?)にあるように整った顔立ちで、妹の優子とともに若い会津藩士達のアイドルとも言うべき存在で、その藩士達の無念さは想像を絶するものがある。

中野竹子

新撰組に代表される様に規律に徹した会津藩の行動に対し、薩摩藩のしたことは鬼畜のごときであるといえる。それ故いまだに会津地方の人たちが薩摩の行動、長州の陰謀を憎み続けるのを一概に否定的になれないのは私だけではなかろう。