会津藩〜エピソード第20章、最終章〜

もう、会津城内は日々、ひどい状況になり、脱走するもの、自害するもの・・・・・、実に悲惨を極めており、籠城してから、すでに1ヶ月が過ぎようとしていた。
このまま籠城して五千人ともに玉砕するか、潔く敵の軍門に下るか、梶原平馬は悩みに悩んだ。

直接の敵が長州藩なら話が違ったかもしれないが、元々、土佐藩とは友好関係であったし、薩摩藩とは同盟関係にあったのだ。
それに、もう十分に戦った、という意識もあったのだろう。
これ以上、籠城を続けて、老人、婦女子を犠牲にするわけにはいかない、と判断し、松平容保の命を保証するということで、降伏を決めた。

攻撃を受けた会津鶴ヶ城

とにかく会津戦争は終わった。
官軍による攻撃を食い止め、1ヶ月もの籠城に耐え、敵兵を一人たりとも城内に入れずに守り抜き、勇猛果敢な会津の歴史に一ページを刻んだ。
その後、会津藩士とその家族は最果ての地、下北半島を中心とした旧南部藩の地に移り、塗炭の苦しみを味わい、多くの人が餓死した。

江戸城無血開城までは、文明開化と言うものだった。
しかし、その後の会津戦争は必要だったのか?
徳川慶喜が恭順の意を示し、蟄居したあと、新政府軍は会津藩を攻め続けた。なぜ、慶喜の命を保証しながら、松平容保の首をねらったのだ?
単に長州の会津への怨念ではないのか?

わたしの愚妻が会津地方の出身であり、子供達が小さい頃、毎年の夏休みに里帰りと言うことで、会津へ行っていました。
ほんの10数年前くらいまで、会津地方では「この間の戦争はすごかったなぁ」といわれる戦争とは戊辰戦争のことであった。そしていまだに鹿児島県、山口県萩市出身者とは結婚を許されないのだ。

薩摩藩の兵隊たちが会津に攻めてきたとき、どれだけ会津藩の子女を陵辱したか、長州藩の謀略で会津藩が朝敵と呼ばれ、どれだけ不遇な目にあったか、その屈辱はレンメンと会津地方に伝わっている。

明治政府は結局のところ徳川政府から薩長政府に変わっただけであり、改革と言えるものではないと思っています。
せっかく取った政権を維持する、また立場を利用すると言った賄賂の横行した政治でもあったらしい。
そしてこの流れが今現在にも伝わり、政治献金という名前に変わってはいるが、結局のところ賄賂以外の何物でもないし、政権を維持することが政治家の目的となってしまっている。
国民のことなどこれっぽっちも考えてないようだ。実に情けないことだ。

今日に至っては、会津藩が朝敵だと考える人はいないだろう。
松平容保の孫娘勢津子姫の皇室入りで清算済みである。

勢津子姫(旧名、松平節子)

しかし、靖国神社には戊辰戦争で戦死した官軍側の兵士は祀られているが、会津藩士は祀られていない。
会津藩士は未だに朝敵扱いなのか?
これは、現在も薩長政権が続いている証拠であり、これを捨て置き、会津薩長の和解はあり得ないだろう。

〜終わり〜