会津藩〜エピソード第2章〜

正之は表に出せない子供と言うことで、苦労して育ったようです。
それを見かねた老中土井利勝本多正信のはからいで、武田信玄の娘、見性院に引き取られ、武田家の遺臣、信州高遠(たかとお)城主保科正光に預けられた。

徳川秀忠亡き後、三代将軍として天下を次いだのは正之の異母兄である徳川家光である。
この家光も将軍就任までに自らの命を断とうとするほどの波乱の人生で、天下人(てんかびと)の家系に生まれた将軍家ならではの悩みがあったのであろう。
その原因はお江与の方と春日局との確執にあったようであるが、ここでは論じない。

家光は非常にできた人物でこの正之を弟として遇し、高遠三万石から山形最上二十万石の大名に抜擢し、さらに会津若松二十三万石の城主を命じたのである。会津若松尾張紀州、水戸の御三家に次ぐ格付けです。

東北には、外様大名の雄、仙台藩があり、この仙台を牽制し、江戸で不穏の事態があれば、何をさておいても駆けつける使命を負わされたのである。
それだけこの保科正之は聡明で人を裏切らない実直な人物であったのだろう。
生涯の大半を江戸で過ごし、会津若松に入ったのは、寛永二十年(1643年)、33才のときである。

会津若松城

正之は学問の人で、山崎闇斎山鹿素行ら当代一流の学者と親交があり、藩の支配体制を堅固なものにするには、「法」に忠実でなければならないとし、四代将軍家綱の補佐役に徹し、法治主義、文治主義を唱えて、儒学を修め、人身売買の禁止、殉死の禁止などを打ち出した。
その生真面目な性格ゆえ、「家訓」を制定しなければならないとした。
いまで言う憲法である。

会津藩はあまりにも立派な憲法を持ったばかりに、それに縛られ過ぎて、国が滅びる結果になったのかもしれない。
まさに、憲法栄えて国滅ぶ、である。

その家訓十五ヶ条の第一条にすべてが集約されている。
「大君の義は、一心に忠勤に励むべきで、他藩の例を持って満足してはならない。もし、二心をいだけば我が子孫ではないから、家臣はそのような主君に従ってはならない」

徳川将軍に忠勤に励むのが藩是である。二心をいだけば会津藩主ではないと、明記したのである。
例え火の中水の中、会津の武士道は幕府のために死ぬことであった。

その会津武士道精神は幕末の頃まで伝承され、東北の奥地から遠く離れた京都の地に守護職として就任することになったのである。