会津藩

会津藩〜あとがき〜

長い作文になってしまった。 稚拙な文章で最後まできちんと読むのも一苦労だったでしょうが、例え、わずかでもおつきあいいただき、ありがとうございました。文章中に薩摩、長州のことを随分と悪く書いてきましたが、あくまでも江戸時代末期のことを書いたも…

会津藩〜エピソード第20章、最終章〜

もう、会津城内は日々、ひどい状況になり、脱走するもの、自害するもの・・・・・、実に悲惨を極めており、籠城してから、すでに1ヶ月が過ぎようとしていた。 このまま籠城して五千人ともに玉砕するか、潔く敵の軍門に下るか、梶原平馬は悩みに悩んだ。直接…

会津藩〜エピソード第19章〜

会津藩への攻撃は白河口の軍兵で、会津は仙台藩の支援を受けたにもかかわらず、戦闘に敗れ多くの犠牲をだし、二本松城が陥落し、国境の母成峠が破られ、・・・・・と次から次へと敗走した。母成峠付近の地図 母成峠古戦場碑 会津戦争は母成峠付近での戦いが…

会津藩〜エピソード第18章〜

この長岡の戦いは熾烈を極め、官軍側として指揮を取っていた山県有朋の会津戦争参加を阻止することになった。 最初は官軍側が有利に進んでいたようだが、河井継之助率いる長岡藩の猛烈な反撃できりきり舞いさせられ、奇兵隊士として参加した山県の盟友の多く…

会津藩〜エピソード第17章〜

梶原平馬は、天保十三年(1842年)、会津藩家老内藤介右衛門信順の次男として生まれた。 梶原家の養嗣子となり、平間景武を名乗った。梶原平馬 話が前後するが、戊辰戦争後、行方しれずとなり歴史から消えていた。 ところが、晩年を北海道の根室で過ごし、明…

会津藩〜エピソード第16章〜

長州藩は会津攻撃の準備を進めていた。 徳川慶喜と勝海舟はみて見ぬ振りで、江戸に戻った新撰組も勝海舟より「甲陽鎮撫隊」として、甲府城攻めを言われた。 大名にしてやるとの話であるが、体よく江戸から追っ払う考えであった。 まさに、トカゲのしっぽ切り…

会津藩〜エピソード第15章〜

神保修理は幅広い視野を持つ人物であった。 会津藩にはこういう人物をかばえる体質になかったようだ。その辺は実に残念です。 国許は保守的で形式主義で、世の中の流れの情報が入ってこなかった。 軍備も整わず、戦術戦略も時代遅れであった。 そんな中、先…

会津藩〜エピソード第14章〜

「一騎となるとも引くべからず」 大阪城に陣取った慶喜は徹底抗戦を叫んだ。 鳥羽伏見の戦い図(突進する会津兵) 数で圧倒し、負けるはずのない戦いであったが、戦況は芳しくなかった。 会津藩兵が持つ銃にしても旧式であり、刀槍の戦いで敵を討てば、首を…

会津藩〜エピソード第13章〜

世の流れは、明らかに変わってきていた。一橋慶喜 徳川家茂が急逝し、一橋慶喜が十五代将軍になったが、後にはこのブタ将軍(豚肉が好きだったらしい)が、二心殿と呼ばれるくらい優柔不断で頼りない将軍であることが歴史に影響してしまったが、当初は賢候と…

会津藩〜エピソード第12章〜

その後の長州藩は試練であった。 蛤御門の変の責任者の切腹、幕府への恭順、藩主の謝罪、山口城の廃棄、七卿の引き渡し・・・・・・・etc。 完全降伏であった。 それに、下関における四ヶ国連合軍からの報復攻撃。もう、踏んだり蹴ったりだ。 これをもって、…

会津藩〜エピソード第11章〜

しかし、会津藩も実に割に合わない役割を任ぜられたものだ。 勤王の志士と自称する輩の大半はいい加減な者が多く、攘夷の御用金と称してのゆすりたかりの毎日であった。 新撰組を悪の権化とし目の敵にしたが、自分たちの方がもっとたちが悪い。会津藩として…

会津藩〜エピソード第10章〜

京の町はますます騒然とし、長州兵が大挙して御所に攻め込むという噂で持ち切りとなった。 そのなか、松平容保は体調を崩し、寝込みがちとなっていた。 この頃、容保はまだ29歳である。 元々、病弱であったらしいので、遠く離れた異国の地で相当なストレスが…

会津藩〜エピソード第9章〜

こういった騒乱の京都で、会津藩に協力すべく薩摩藩が立ち上がった。 日頃から長州勢の暴走には薩摩藩も苦々しく思っていたのだ。 過激派の行動に批判的であった中川宮を通じて、天皇に長州勢の追放を奏上した。 天皇はなかなか首を縦に振らなかったが、過激…

会津藩〜エピソード第8章〜

新撰組は会津藩とは密接な関係があり、在京中は内ゲバも含めて、いろいろなドラマが展開したが、やや本筋から外れるので、ここではこの程度にしておこうと思う。 局長は近藤勇であったので、板橋で処刑されたことで新撰組は消滅した、と言うこともできるが、…

会津藩〜エピソード第7章〜

周知の通り、この池田屋事件では幕末の志士と言われる中でも重要な地位を占める大物が数多く亡くなっている。このことが長州藩に火を付けることになった。 世間から大いに注目を浴びることになった新撰組であるが、長州藩は意気消沈して大人しくなるどころか…

会津藩〜エピソード第6章〜

会津藩の京都守護職を考察するに当たって、新撰組の存在は切っても切れない関係にある。 少しだけ横道に入るが、新撰組について思うところを書いてみたい。壬生に着いた二百人以上の浪士隊は、あまりにも荒えびすで、幕府も手を焼いた。 それで、横浜で起こ…

会津藩〜エピソード第5章〜

文久二年十二月九日、松平容保と家臣郎党千人の会津本隊が江戸を出発し、京都に入ると東山山麓、黒谷の金戒光明寺を本陣と定めた。 京都の人から黒谷さんと呼ばれ、親しまれている寺院である。 金戒光明寺 私が黒谷さんに行ったのは何年か前の真夏の7月末で…

会津藩〜エピソード第4章〜

会津藩士の子供達は十歳になると、日新館へ入学となる。日新館 長州藩に明倫館、仙台藩に養賢堂、米沢藩に興譲館があり、幾多の人材を輩出したが、会津藩校日新館も天下に響いていた。 この藩校の基礎は、藩祖保科正之によって創建された稽古堂に始まってい…

会津藩〜エピソード第3章〜

会津藩は幼児教育に特長があった。 明治になってから東京帝国大学総長になった元白虎隊士の山川健次郎氏が回想している。 兄は山川大蔵で、若年寄で会津戦争時は家老職であった。 妹に山川咲子がいる。 少し横道にそれるが、この山川咲子について簡単に述べ…

会津藩〜エピソード第2章〜

正之は表に出せない子供と言うことで、苦労して育ったようです。 それを見かねた老中土井利勝、本多正信のはからいで、武田信玄の娘、見性院に引き取られ、武田家の遺臣、信州高遠(たかとお)城主保科正光に預けられた。 徳川秀忠亡き後、三代将軍として天…

会津藩〜エピソード第1章〜

会津藩を語るには、藩祖である保科正之を語らなくてはならない。父親は二代将軍徳川秀忠で、一夜の浮気(?)から生まれたと言われている。 秀忠の正室はお江与の方で、かってNHK大河ドラマで放送された「江〜姫たちの戦国」の主人公である。 (お江与の…

会津藩のことをぼちぼちと書いてみよう

以前にこの「はてなダイアリー」で開設していたブログで会津藩のことを書いていたのですが、いったん解約した関係ですべてのメモリーが消えてしまいました。ところが、物語としてバックアップを残していたことに気付き、再びその物語を書いていこうと思いま…