会津藩〜エピソード第10章〜

京の町はますます騒然とし、長州兵が大挙して御所に攻め込むという噂で持ち切りとなった。
そのなか、松平容保は体調を崩し、寝込みがちとなっていた。
この頃、容保はまだ29歳である。
元々、病弱であったらしいので、遠く離れた異国の地で相当なストレスがあったのだろう。
痛ましいことである。

病床から京都所司代新撰組に長州勢の監視を命じた。
見つけ次第、斬殺してもよい、との命令を出していたようだ。
新撰組も血眼になって浪士を追った、手柄を立てる絶好の機会である。

このあと、新撰組の活躍で容疑者を確保し、拷問の末、問い糾した内容は仰天内容であった。
その後に続く、幕末でもっとも悲惨な出来事、池田屋事件へと歴史は展開していく。

池田屋の内部

この池田屋事件では、会津藩は出動もかなり遅れたし、新撰組が踏み込んでからも、戦闘中、会津藩兵は屋内には踏み込んでいない。
はっきりと過激な浪士達の会合であれば、御用改めの名目で屋内に入り、不逞の輩を切って捨てただけの話で処理できたが、歴とした藩士を斬殺したとなると藩同士の戦争となってしまう。会津藩としてもこれは避けなければならない。

西郷隆盛

事実、困ったのは、薩摩藩西郷隆盛である。
これらの一連の動きを会津藩長州藩の私闘とし、当初は薩摩藩として関わりを持とうとしなかった。
しかし、御所をせめようとする長州はあまりにも過激であるとし、最終的には会津藩支持を打ち出している。

この池田屋事件によって、明治維新が1年は遅れたとする見解と逆に早まったとする見解があるが、個人的には、早まったとみるべきだと思う。
このころは逃げの小五郎と言われた桂小五郎も京都では長州藩の中心人物であったし、藩論を押さえることのできる立場であった。
藩士たちから信頼を置かれていた高杉晋作は投獄されていた時期である。
過激な行動を取るには時期尚早という空気が支配的であったからです。

しかし、この池田屋事件をきっかけとして、長州藩内では過激派の意見が体勢を占めるようになり、もう誰も押さえることはできなくなっていた。
わずか1ヶ月後に蛤御門の変へと歴史は沸騰していく。
長州の爆発である。