こういった騒乱の京都で、会津藩に協力すべく薩摩藩が立ち上がった。
日頃から長州勢の暴走には薩摩藩も苦々しく思っていたのだ。
過激派の行動に批判的であった中川宮を通じて、天皇に長州勢の追放を奏上した。
天皇はなかなか首を縦に振らなかったが、過激派の公家たちが参内してくる間際になって、ようやく長州追放の勅許がでた。
すぐさま、会津藩、薩摩藩は御所の門をすべて固め、長州勢を閉め出した。
世に言う八月十八日の政変である。
官位を剥奪された三条実美らの七人はやむなく長州へ向けて都落ちした。
七卿落ちである。
七卿の都落ち図
余談だが、このとき、新撰組はまだ芹沢鴨が筆頭局長であり、世間に知られていない浪士集団であった。
慌てて御所に駆けつけたが、あまりのみすぼらしい格好に門を警護中の会津藩兵に槍を突きつけられて、一悶着あったらしい。
軍事奉行が駆けつけて事なきを得たらしいが、てんわやんわのクーデターであったようだ。
孝明天皇は「これまでの勅命は真偽が不明であったが、これからの勅命が真実である。今回のことは国家のために幸せである」と述べ、長州勢の追放を喜ばれた。
この日から天皇は会津藩主松平容保に深く信頼を寄せるようになった。
一方、都落ちとなった長州勢は藩論が沸騰した。
今すぐに京に攻め上がると叫ぶ者、いやいや軽率な行動は取るな、と戒める者。
高杉晋作は、自分で組織した奇兵隊を率いて上洛し、薩摩、会津と戦うと叫んだ。
しかし、時期を待つべしとの説得でようやく落ち着いた。
奇兵隊士
この奇兵隊は身分の差無く誰でも登用し、自由な雰囲気であった、とされているが、実体は大きく違っていたようだ。
詳しい資料は知らないが、奇兵隊に所属していた人の子孫だ、と言う方に教えてもらったことがある。
奇兵隊は4段階に分かれていて、一番上は絶対に死んではいけない者、真ん中二つがあって、一番下は、いつ死んでも良い者とはっきりと区別されていたそうだ。
また、軍律も新撰組と同じく、「罪を犯す者は殺す」とされていたようです。
いずれにしても、藩中、憤懣やるかたない中で、雪辱を期すことを藩是とした。
長州藩士は下駄の裏に「薩賊、会奸」と書いて踏みつけて歩いたと言う。
しかし、これらのことは長州勢にとっては身から出た錆であり、自業自得である。京の町を焼き払うというようなことが許されるはずがない。
とは言え、長州の地では元々、徳川に対する不満が関ヶ原の戦い以後、マグマのように溜まっている。
会津兵、新撰組の監視が厳しい中、長州勢は闇に紛れて京都に出入りしていた。