新島八重さんの足跡を辿る散策です

御金神社を後にして、既報の通り先日に電池切れで撮影できなかった場所の再訪問です。

八重さんが京都に来て最初に働き始めた場所が”女紅場”で、そこで機織を教えていました。
その後に新島襄と結婚し、住んでいた住居とか女紅場の門とかをご紹介します。

さて、ご存知のように当時は会津藩京都守護職として存在しました。
藩士の拠点としては”くろたにさん”と呼ばれる金戒光明寺に置いてましたが、実際の実務の場所は御所の西で今の府庁のあるところです。

下記は府庁にあった守護職門です。

この写真にあるように守護職門の屋根瓦に菊の御紋があり、会津藩が真の「天皇の軍隊」すなわち官軍なのである。

さて、黒谷の金戒光明寺には会津藩墓地があり、その近くには会津藩のために十分な働きをした「会津小鉄」の墓もあります。


さて、ここから同志社共同墓地にあります新島襄新島八重山本覚馬の墓地に向かいます。


そのほかに八重の父、母、弟、また八重が新島襄と結婚した当初は八重を”鵺”として批判した徳富蘇峰の墓もあります。

この新島八重さんは幕末と言う、日本の夜明けの時期に生まれ、それも会津の地であり、藩士の家で育ち、よりによって大砲奉行の娘という数奇な人生に翻弄され、実に波乱の人生であったと思う。
享年88歳という当時としてはかなりの長命であり、昭和の時代まで生き延びた。

暗雲漂う幕末の京都は知らないとは言え、その後の京都は東京以上に変革の波にまみれたと思うが、その明治維新のめまぐるしい時代を過ごした、その心境はどうであったろうか?

私がここまで会津の存在に気を取られるのは、私の愚妻が会津出身だからでもある。
妻は会津から中学生のときにこの尼崎に転校してきて、私と言うバリバリの関西人と夫婦になったのである。
家族ごと引っ越してきたと言うのも新島八重に重なるものがある。

ま、旦那が新島襄と私では全く違う存在なので、比較するのもなんですが。(爆笑)

なにわともあれ、実に充実し楽しい京都散策でした。
これからは京都で文化財特別公開もありますし、紅葉の季節もやってきます。
散策仲間を誘って、何度も京都に行きたいものです。

それには母親の回復と私の生活、健康が何より重要ですね。

ではでは。