会津藩〜エピソード第5章〜

文久二年十二月九日、松平容保と家臣郎党千人の会津本隊が江戸を出発し、京都に入ると東山山麓、黒谷の金戒光明寺を本陣と定めた。
京都の人から黒谷さんと呼ばれ、親しまれている寺院である。

金戒光明寺

私が黒谷さんに行ったのは何年か前の真夏の7月末で、特に猛暑の年で熱中症寸前で歩いたのを覚えている。
しかし、幕末ファンとしては絶対に外す事のできない寺院であり、特に会津関係者としては聖地とも言える場所である。
広大な敷地で、要塞とも言える構えで千人程度の人数は楽に収容できるだろう。

幕末の頃、この場所に東北の田舎から出てきた人達が、わずか数年ではあるが、日本の歴史に残る動乱期を過ごしていたのか、と思うと感慨深いものがある。
さらに大きな本堂の横から石段を登ると小高いところに会津藩墓地がある。


会津藩墓地入口

墓地内

純朴で教養に富み、質実剛健なさむらい魂を持った数多くの会津の武士たちが、遠く会津の大地を思い、空に浮かぶ雲に想いを馳せ、無念の思いでこの京の都で散ったのである。
数多く並んだその墓石を見ていると、郷里への惜念の想いが伝わり、流れる涙を止めることはできなかった。

会津人は江戸時代は、飛び抜けた教養人であった。初代藩主の保科正之は書物を読んで行動することが大事だと説いていた。そんな教養の高い会津人が治安を守るために就任している地に金回りの良い長州、薩摩が入り込んでくると話しがややこしくなる。

その当時の公家は金さえもらえば、バンバンと偽の勅語を乱発したものだから、京都の治安が乱れるのは致し方のないことだろう。
金のない会津藩祇園で飲む金もなく、腰に握り飯をぶら下げて歩いているのだから、誰からも相手にされない。
だから、京都では会津人はケチだというレッテルを貼られてしまったのである。
実に理不尽で哀しい話しだ。

凶作に悩む郷里を気にかけながらも、松平容保をはじめ会津藩士たちはただただ幕府のため、京の町を勤王の志士と言われるテロリストたちの暴挙から守るために、日夜奮闘していたのである。

そんな中、江戸から幕府の依頼で徳川家茂将軍警護の募集に応じた二百名以上の浪士隊が京の西の外れ、壬生村に到着した。今の四条大宮の辺りになる。

まさに、一夜にして壬生界隈は屈強の武士たちで溢れ、地元の者を驚かせた。
文久三年、春まだ遠い二月の末のことである。


その中に、近藤勇土方歳三沖田総司らがいた。
そう、後の新撰組である。