会津藩〜エピソード第8章〜

新撰組会津藩とは密接な関係があり、在京中は内ゲバも含めて、いろいろなドラマが展開したが、やや本筋から外れるので、ここではこの程度にしておこうと思う。

局長は近藤勇であったので、板橋で処刑されたことで新撰組は消滅した、と言うこともできるが、実際には副長である土方歳三が実権を握っていたことを考えると、この函館において、新撰組は完全に消滅したと言うべきであろう。
いずれにしても、京の町で志士たちを震え上がらせた鬼の軍団は歴史に大きく名を残した。

私の独断と偏見だが、明治以降は、志士と言われる狂気のテロリスト集団が政権を取ったものだから、そのテロリストを排除していた新撰組は悪の軍団、人斬り集団というレッテルを貼られてしまった。

しかし、私個人的には、新撰組は忠孝の誉れ高い武士道を貫いた忠義の集団であった、と思っています。

さて、会津藩京都守護職として金戒光明寺を本陣としたが、その頃の京都は、志士同士の内ゲバ事件、幕府側の要人を狙うテロが横行していた。
幕府側の公家の家臣、与力の渡辺金三郎、目明かし文吉が殺され、長野主膳の愛人村山可寿江は生き晒しに遭い、主膳の身内多田帯刀の殺害・・・・・・・・。枚挙にいとまがない。
長州藩という狂気の集団の暴走である。

あのノンビリした東北の地からまさに血なまぐさい京の町に出てきて、その有様をみた会津武士たちの驚きは想像するに難くない。
おそらく、容保は真っ青になって、事にあたっていたのだろう。
それもこれも孝明天皇の極端な外国嫌いに端を発している。

孝明天皇

その流れに勤王の志士と言われる輩が乗った。
尊皇攘夷の名の元に好き勝手なやりたい放題の傍若無人な卑劣な行為を行った。
これらの中心になっていたのは、軽挙妄動がひどく、長州藩のお偉方から総スカンだった吉田松陰であろう。そして、彼が開いた松下村塾の門下生たちである。
松蔭が安政の大獄で処罰されたとき、藩の上層部はホッとしたらしい。

しかし、松蔭先生の遺志を継ぎ、門下生であった高杉晋作(肺結核で病死)、吉田稔麿池田屋事件で没)、久坂玄瑞蛤御門の変で没)、入江九一蛤御門の変で没)の四天王と言われる人物を代表とする幕府大キライの面々が京都で暗躍した。

左より吉田松陰高杉晋作久坂玄瑞

またまた、私の独断と偏見ですが、現在に言い換えれば、松下村塾アルカイダ吉田松陰はオサマ・ビンラディンに相当するかも、です。
見方によっては、狂気の集団を作った吉田松陰は大罪人と言えるだろう。
これはあくまでも敗者から見た幕末論議であり、歴史の流れの2歩も3歩も先を読んでいた賢人であることは間違いないでしょう。