会津藩〜エピソード第17章〜

梶原平馬は、天保十三年(1842年)、会津藩家老内藤介右衛門信順の次男として生まれた。
梶原家の養嗣子となり、平間景武を名乗った。

梶原平馬

話が前後するが、戊辰戦争後、行方しれずとなり歴史から消えていた。
ところが、晩年を北海道の根室で過ごし、明治二十二年まで生存していたことが判明した。
今から十数年前の事である。
梶原の妻、貞子が根室の学校教育に貢献し、表彰を受けていたことが分かったのです。
おそらく、戦争後、藩民とともに本州の北の果てに追いやられ、そのまま北海道に渡ったのであろう。

この若い梶原平馬は、越後長岡藩との連携を考えた。
元々、会津と越後とは深い親交があり、越後には会津の領地もあった。

河井継之助

長岡藩家老、河井継之助は憤慨し、梶原に同調した。
「幕府とは何だったのか、自分だけ助かればそれでいいのか!ふざけるな!」と憤慨し、協力を約束した。
ともに行動を取り、武器弾薬の調達に協力した。

さらに、梶原は奥羽の諸藩に書状を送り、薩長の理不尽さを訴え、協力を求めた。
こんな動きを察して、薩長も動いた。
仙台に鎮撫使として、後に吉田松陰と並ぶ悪名高き極悪人となる、世良修蔵を送り込んだ。

世良修蔵

狙いは、仙台藩会津藩を討たせることにあった。
しかし、東北の大藩、仙台藩にとっては実に役不足の小物であった。
桂小五郎木戸孝允)が直接乗り込むべきであった。

世良のあまりの居丈高の態度に仙台藩士がきれた。
暗殺なのか、審問の上に斬首なのか、不明だが、世良の首は厠に捨てられたという。
胴体は阿武隈川のほとりに埋められたが、増水で流されてしまったらしい。
この時代、武士の尊厳を保つため、斬首でもきちんと埋葬するのが普通だが、世良の態度が余程の事だったのだろう。

仙台藩としては、御所に発砲した長州藩が官軍で京都の治安と御所を命がけで守った会津藩が朝敵とは信じられないことであった。
これを機に奥羽越列藩同盟が結成され、会津藩支援の輪が広がった。
薩長にとっては驚きで意外な展開であった。

この時点では、長岡藩はまだ武備中立であった。
長岡藩の河井継之助薩長が侵攻してきたら首脳陣の薩摩の黒田清隆、長州の山県有朋と会談し、会津攻めの中止を申し入れ、会津を説得して無血開城を考えていた。

黒田清隆

山県有朋

そして、豊富な武力を背後に納得させ、越後から薩長を駆逐するつもりであった。
ここで、慈眼寺が会場になった。世に言う小千谷会談(おぢやかいだん)」だ。

しかし、会談に参列したのは、土佐藩岩村精一郎などの役不足の人物であった。

岩村精一郎

山県の姿も黒田の姿もなかった。
後の世になっても、新潟の料亭の女将が「あの若輩が!!」と言うほどの小物だ!
河井との話しをろくに聞かず、話し合いを事実上拒否した。
河井との会談に山県が、あるいは黒田が出席していれば、また歴史は変わっていたかもしれない。

その交渉決裂を受けて、ついに長岡藩が戦闘の火蓋を切った。