会津藩〜エピソード第12章〜

その後の長州藩は試練であった。
蛤御門の変の責任者の切腹、幕府への恭順、藩主の謝罪、山口城の廃棄、七卿の引き渡し・・・・・・・etc。
完全降伏であった。
それに、下関における四ヶ国連合軍からの報復攻撃。もう、踏んだり蹴ったりだ。
これをもって、京都の会津藩松平容保はホッと一安心だ。

しかし、長州藩の若手は黙ってはいなかった。
幕府に恭順する人々を「俗論派」に対し、「正義派」と称し、奇兵隊、御楯隊、鷹懲隊、遊撃隊、八幡隊があり、少数派ではあるが、もう死にものぐるいであった。
内ゲバで、志道聞多(のちの井上馨)が重傷を負うなど長州内部も荒れていた。

幕府・会津藩もこの気に一気に長州藩を叩いておくべきと長州征伐を実行したが、もはや幕府も勢いのある大名もなく、長年の太平の夢をむさぼっていた幕兵側には戦闘意欲が無く、長州を成敗しきれなかった。

勝海舟

そんな折り、幕府からみたら、裏切り者とも言える幕臣勝海舟西郷隆盛との会談で、「幕府はもうだめだ、会津も保守的すぎる。倒幕だな。」と仰天内容の話を西郷としていた。

こういう流れになかで、勝海舟の影響を大きく受けた幕末最高の風雲児、坂本龍馬の存在が一気にクローズ・アップしてくる。
(私、個人的には坂本龍馬は、グラバーの手先として動いていたフルベッキの影響、かつ洗脳で行動していたと思ってますが・・・・・。)
薩摩の西郷隆盛、長州の桂小五郎の間を取り持ち、世に言う薩長同盟を結実させた。

坂本龍馬

長州藩としては、幕府、会津藩と組んでさんざん自分達を苦しめた薩摩藩と手を結ぶのは抵抗があっただろう。
薩賊とまで言って憎んだ相手だ。
しかし、幕府と戦うには武器が必要で、薩摩藩を通じて武器購入ができるなら、と泣く泣く手を結んだ。

薩摩藩としても、勝海舟の態度をみれば、先行きに希望は持てずにいたのだろう。
まだ、倒幕と言うところまでは考えてなかっただろうが、機を見るに敏であり、世の流れは変わって来ている、との考えもあったのだろう、沈まんとする泥船(幕府)を支えるのは割に合わないと現実路線で考えたようだ。
その辺が、不器用な会津藩と違うところで、薩摩藩は仁義より実をとるのが政治と考えたのだろう。

長州征伐がうまくいかなかったことで、世間の心も幕府から離れ、求心力が無くなっていった。
会津藩としても薩摩藩に裏切られ、頼るのは徳川しかない。
しかし、それでも会津藩はまだ孝明天皇の覚えもよく、信頼も大きかった。
長州藩がいかに偽りの尊皇を叫ぼうが、天皇会津藩が守る御所の中に鎮座されている。
会津藩が正義であり、官軍であった。